ふくろうブログ

1999.01.01 介護と福祉

障害と介護について

私でなくて、なぜあなたが?」 ハンセン病の隔離施設である東京都多摩全生園で、らいの患者さんに初めて接したとき、当時津田英学塾2年生であった神谷美恵子さん(1914-79)は大きなショックを受けたそうです(神谷美恵子著作集1、みすず書房)。

津田英学塾在学中に文部省の高等英語教員検定試験に合格し、アメリカのコロンビア大学にも留学するほどの才媛であった彼女は、ハンセン病者のこころの支えになるべく、東京女子医専(現在の東京女子医大)に進み、東京大学精神科、大阪大学神経科勤務を経て、岡山県の長島愛生園精神科に勤務します(1958-72)。社会から隔離され、偏見と蔑視(べっし)の象徴であったらい病者の中に入り、いわれなき差別に苦しむ人々のこころの悩みに、自身の健康を犠牲にして取り組みました。

彼女は後に神戸女学院大学や津田塾大学の教授になりますが、その視線は一貫して、病者、幼き者、弱き者に向けられていました。からだの病気であれ、こころの病気であれ、苦しみ、悩んでいる人々を見過ごすことは、彼女にはできなかったのです。

3年前、いわゆるらい予防法が廃止され、ハンセン病は隔離する必要のない病気であることが国によって初めて認められました。しかし患者さんたちを受け入れる社会の側に、目に見えない隔離の壁が存在することは否定できません。

薬害によるHIV感染症(エイズ)でも、水俣病、カネミ油症、イタイイタイ病などどれをとっても、本人には直接責任のない原因・理由によって、ある日突然に障害者、奇病患者というレッテルを貼られ、予想もしなかった偏見と迫害に苦しみ、結婚や幸せな家庭生活をあきらめる、そのような可能性は今日でも決して他人事ではないのです。

生まれたときからの脳障害で、首もすわらず、話すことも動くことも、自分で食事も排泄もできないような重度の精神運動発達遅滞をともなう人もたくさんいます。周囲を見回してもあまり見当たらないのは、ただ彼らの多くが重症心身障害者施設に収容されているからにすぎず、私たちの目に見えないから存在しないわけではありません。

7年前から、私は、「福岡市身障者スポーツ大会」や「ときめきフェスタ(身障者と健常者の触れ合いと、ノーマライゼーションを目指す会)」の実行委員会の嘱託を受け、これらの大会(それぞれ毎年1回ずつ開催されている)の救護医師として参加しています。そこでは、ふだんの診療では見えてこない多くのことを経験することができます。

自分では何もできないような重度の身障者は、他者の厄介者になるだけの存在ではありません。彼らには一から十まですべての介護が必要ですが、しかし介護している家族やボランティアの人たちの顔は輝いています。介護を受けるひとが、生命のエネルギーを発しているからなのです。与える側が与えられている、介護の不思議さです。

車椅子の中でよだれを流している、すでに中年に達したと思われる年齢の男性を、足腰の弱った老夫婦がそろそろと押して通ります。2人にとっての人生は、一日24時間のすべてが、障害を持って生まれたわが子への介護に尽きてきたことでしょう。 他の一切をあきらめて、その子を中心にして家庭生活を営んできたはずです。 しかしこの老夫婦は、輝く命の意味を誰よりも深く知っているにちがいありません。

21世紀は介護の時代と言われます。健常者が病者を介護するだけでなく、病者が病者を、高齢者がさらに高齢者を、少しだけ体力のましな者がより弱っている者の面倒を見る、それが発想の根本になければならないでしょう。そして何よりも、神谷さんの感じたように、「私が障害を持って生まれるかわりに、あなたが背負ってくださった」と思う感性、他者の障害を自分のこととして感じるこころの目が必要だと思います。

年をとれば誰もがハンディを負うことになります。お年寄りや妊婦さんは、それだけで多くの困難を抱えている状態です。誰もがいつかは介護を受ける側に立つのです。

介護は、自分たちが介護を受ける年齢に達してから考えればよい問題ではありません。元気いっぱいに成長しているこどものうちから、他者への優しいまなざし、感性を育てていくことが親である私たちのつとめであり、ひいては自分自身の将来にも必ずはね返ってくることなのです。子育て真っ最中の若いご夫婦にはピンとこないでしょうが、私たちは日々の子育てを通して、弱者に優しい社会の実現に参加できるのです。

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