私たちは、だれもが同じ時間を生きているはずなのですが、実際には、ひとり一人それぞれに、その時間の感じ方(主体的時間)はちがいます。楽しいことはあっという間に過ぎてしまうのに、悲しいこと、つらいことは、まるで時間が止まってしまったように長く永くつづきます
そういう経験はだれにでもあるはずですから、いまさら取り上げるほどのことでもあるまい、と感じられるかも知れません。けれども、その同じ時間が大人の場合、こどもの場合、お年よりの場合、身体や知的障害をもつ方々にとっての場合とでは、それぞれに全く異なっている、ということをからだの感覚として身につけておくことが大切です。
それだけではありません。心に深い傷を負った場合、たとえば学校や職場でイジメにあったり、ある日突然に何らかの事件に巻き込まれたり、という場合にも、その人の上に流れる時間は、それまでとはまったく異なった色彩をおびてくることでしょう。
つまり、生活感覚として流れていく時間はひとり一人すべて別物であり、同じ人間にとっても、その時どきの状況によってまったく別物として感じられることになる、と考えられます。
私たちが子育ての過程で、あるいはお年よりやハンディのある方のお世話をするときに、ついつい忘れがちなのが、この時間の感覚です。思考と行動のリズムといってもよいでしょう。
幼いこどもやお年より、弱者を相手にするときに、もっとも気を使わなければならないこととは何でしょうか?それは、いかに相手のリズムに私たち自身のリズムを合わせて付き合えるか、ということではないでしょうか。そしてそれが自然にできる方はきわめて少ないと思うのです。
幼いこども、寝たきりのお年より、ハンディのある方がたに、黙々と、声を荒げずに仕えることのできる方々は、きっとご自身の中で多くの怒りの声を押しつぶしてこられたはずでしょう。上手に人と付き合うために自分を抑える、忍んで耐える、極限の努力が求められるからです。
今日、コンピュータの技術的進歩は想像を絶するスピードといっても過言ではありません。私たちが子どもの頃にあこがれていたレベルを超えて、時代ははるかに進歩しているのです。
一人一台ずつ電話を所有する時代。ポケベルから始まって、今ではインターネットさえ可能なケータイのあっという間の普及。塾通いの小学生でさえケータイを手放せない時代。このような状況は、わずか10年前には、一部の専門家を除いては考えもしなかったことでしょう。
家電製品の店頭には、一昔前のスパコン(スーパーコンピュータ)並の性能を誇るパソコンが並んでいます。実際に、たとえばアップルコンピュータ社のG-4という最新機種では、数台のパソコン同士を配線なしで連絡することも可能で、イントラネット(企業内あるいは職場内パソコン通信網)の構築も簡単そのもの。オフィスコンピュータがほとんど売れないというのも当然でしょう。
ところが、このような電子機器の高速の進歩も、すでに視力、聴力、体力の衰えたお年よりには、まったく別世界の出来事に過ぎません。733メガヘルツのパソコンがどれだけ高性能か、などと議論しても、「はあー、そりゃ何だべ?」となります。高速に進行するビジネスの世界とは無縁の、時間が止まったような世界に日々を過ごすたくさんの人々がいます。
毎日の健康を維持するために、決められた空間を散歩し、きちんと食事をし、日向ぼっこと庭の草むしりに精を出し、畑の野菜や庭木に水をやり、、、etc.
それらの時間の流れには、昨日も今日も十年一日のごとく変化がありません。急な変化がない方がお年よりは長く生きられるでしょう。どのお年よりにも、すでに十分に長い人生の蓄積があって、その古い記憶をくり返し反芻(はんすう)することが生きる支えになっているからです。
重度の身障者の場合にはどうでしょうか? 自分では、食事、着替え、排泄、入浴、それら一切をできない立場です。この方々に流れる時間は、常に介護者によって触れられることでのみ感じられる時間、それがすべてとなります。時には、ちっ息しないように、たんの吸引もしてもらわなければなりません。 もう少し手ぎわよくできないものか、もっと時間を短縮していちどに何人もケア-できないだろうか、だって今は高速コンピュータの時代だろ?そう思われる方もおられるかも知れません。
けれどもそれは、おそらくあと何百年たっても基本的には変わらないだろうと私は思います。いかにコンピュータ技術が進歩しても、人間のリズムは機械のそれとはまったく別だからです。
本来、子どもを育てること、お年よりや弱者を支えていくことは、科学技術の進歩とはまったく別次元の話なのですが、何となく、紙オムツの普及や、ボケ阻止薬の開発、モニター機器類の進歩など、見かけ上の生活が便利になってくると、子育てや、お年より、弱者のケア-も、それに伴ってより簡単になるはず、という幻想があるように思えます。
私たちの日常生活がいかに電子機器に囲まれたものになっていこうとも、子育てや、お年より、弱者のケアーには、現在とほとんど変わらない体力と時間を必要とするでしょう。そこでは、肌と肌のふれあい、手ざわりのぬくもりが感じられる、ゆっくりとした時間が大切なのです。 「ミレニアム」とは、それら無数の人と人の関わりを経てきた、「生きられた」時間でもあります。
私自身は、これからも医療機器に頼らない、手仕事的な診療を目指し続けます。そして与えられた時間の多くを10年後、100年後の子どもたちや地球の将来を考えるために使いたい、未来を支える子どもたちの時間を一緒に生きたい、それが西暦2000年の初めに私が考えたことです。