ふくろうブログ

1997.12.01 ふくろう通信

一木こどもクリニック便り 1997年12月(通算12号)

晴れて乾燥し、かつ風が強くて気温が低いとインフルエンザの流行が始まります。 例年クリスマスの後、日本列島を巻き込む民族大移動によって、インフルエンザウイルスは拡散します。 とくに受験生の皆さん、これまでの折角の努力も、直前にインフルエンザにやられたのでは水の泡となります。 今年もあとわずか、最後までがんばって下さい。

いじめについての考え方 ②

この一文は、いじめられっ子に、他の誰よりもよく理解してもらえるのではないかという気がする。(中略)ほとんどは私自身が体験した状況であるが、いじめられ体験というものは言葉に非常にしにくいものである。それを多少とも言葉にする上で、震災後に勉強のために翻訳したジュディス・ルイス・ハーマン『心的外傷と回復』(邦訳みすず書房、1996年)が大きな触媒(しょくばい)となった。
(中井久夫 いじめの政治学 『アリアドネからの糸』みすず書房1997 より)

なぜ、いじめは起こるのか

この通信を読まれるお母さんやお父さん方は、まだお子さんが小さくて可愛いい盛り、という方々が大部分でしょうから、いじめの問題などピンとこないだろうと思います。ましてや、わが子が直接の被害者になったり、あろうことかうっかり加害者側になろうなんて、全く想像できないのではないでしょうか。ところが今や、いじめは子ども社会から大人社会まで普遍的な現象といえるのです。
実際にそのような渦中にわが子がはまってしまってからでは遅いのです。このクリニックには、いじめ被害についての相談が多く寄せられています。ですから、まだ子どもが小さくて何も問題の起こらないうちから、親として一度はこの問題を真剣に考えてみるのが望ましいと思うのです。
中井先生の論文ではなぜいじめが起こるのかについては語られていません。
ここで私の考え方を述べます。

いじめを引きおこす基本的な条件の一つは、最近の子どもたちが流行のように口にする、「ムカツク」という心理状態です。なぜムカツクのか。ムカツクという心情は、対象のはっきりしない漠然としたイライラ、コントロール困難な情動や衝動、しかもわれわれが想像しているのとは異なって、持続的なイライラといえます。10歳頃から以後、子どもたちの多くは、常にイライラしているのです。

そのことについては、多くの指摘がなされていますが、私たちが過ごしてきた時代と異なって、現代の子どもたちを取り巻く家庭・社会環境の中では、子どもたちの感じている心身のストレスを解消・吸収できていない、という一言に尽きます。ムカツキを覚えない子どもを探す方が困難ですから、すべての子どもたちが、いじめに関しては加害者になりえる、と言って差し支えないのです。

こうして仲の良い数人のグループがいて、皆がムカツキを感じていて(潜在的な原因はどのようなものでもよいが、それが必要条件である)、たまたまそこに異質の、標的になりやすい子どもがいさえすればそれで十分条件となります。後は中井先生の論文のように、絵に描いたようにいじめが発生し、進行していきます。

では、標的になりやすい子どもというのはどのような子どもなのか。例えば、転入生、言葉遣いの少し違う子、帰国子女、極端な肥満・やせ、湿疹がひどい子、髪の色が違う子…。もう何でもよい、ムカツキのはけ口の対象となりうる条件は、冷静に考えれば何ということはない、どうでもよいようなことなのです。つまり中井先生が指摘しているように、「些細(ささい)な身体的特徴やちょっとした癖(くせ)」で十分なのです。

ところで、いじめの加害者は、同級生の信望も厚くリーダー格の子どもが多いという事実を理解しておく必要があります。すなわち不特定多数の級友のムカツキを代表して吸収し、それを上手にコントロールしつつ吐き出させることのできる統率能力に長(た)けた子どもが、加害者グループのボスになることが多いのです。

このような子どもは、担任教師の覚えもめでたく、クラスの大部分の意見を集約する能力にも長けていますから、担任教師は、最初から知らないうちに加害者側に加担するというしくみになってしまうのです。いじめが見えないなどというものではありません。

それは、ちょうどアガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」と同じ構造、すなわち、 殺された被害者以外は、そこに乗り合わせたすべてが犯人であった、という構造になっているのです。 あるいは直接に手を下さないまでも、見て見ぬふりをする、物言わぬ多数(サイレント・マジョリティー)に保護された少数の加害者グループ、という構造になってしまいます。

被害者は、何らかのいじめに結びつく言動を、同級生あるいはクラブの先輩・同輩から受けた時に、そのことを親に直接に言うか、サインをだすことはありますが(もっとも多い初期のサインは、しぶるということ、すなわち学校に行きしぶる、クラブ活動への参加をしぶる、です)、仮に言えたとしても、同時に必ず、「決してこのことを担任の先生に口外したり、相手の親に言ってくれるな」と口止めをします。

教室という多数集団の力学的構図の中では、孤立したうえに、「チクったな」と言われることが一番応えるからなのです。そしてそのことが、また加害者を増長させることになります。これがいじめのワナなのです。もがけばもがくほど深く食い込んできますが、周囲はニヤニヤしながら見ているだけなのです。教師にも親兄弟にも言えず、限りない孤独の中でもだえ苦しむことになるのです。

そしてもう一つ大切なことがあります。いじめ抜かれる子どもは集団内で孤立しているわけですが、その保護者も、地域社会であまり周囲と交流のない家庭が多いように私は感じます(これについては異論があるかも知れません)。自分の子どもをいじめの被害者にしないためには、日頃から地域社会や学校の父兄会などの交流を緊密にする、すなわち父兄同士のネットワークに親も参加していた方が良いのです。

またいじめの加害者にしないためには、子どものムカツキを極力、家庭内で吸収する努力が要ります。しかし、子どもの欲しがる品物で代替してはなりません。子どもは、口ではゲーム機が欲しいとかいろいろ言いますが、本当に欲しているのは、親にまともに対応してもらいたいということなのです。

小学校高学年から中学生にかけて(いわゆる前思春期から、思春期に相当)の、いじめが多発する年齢に子どもがさしかかった時に、急に親子の対話などといってあわてても遅いので、誕生から2歳までの「苗」の時期に十分母子関係を確立しておくことが大切です。
このことについては、いずれ別の号で詳しく述べたいと思います。

またしばしば、いじめの加害者自身が家庭内で親に暴力を受けていることがあります。必ずしも腕力ではなく言葉による暴力のこともあります。家庭が子どもたちにとって安らぎの場でなく、不安と緊張の場になっているような状況では、子どもは生きていくだけで不安を背負わなければなりません。

衣食住に事欠くような時代には、生存していくために子どもといえども必死になりますから、いじめなどはほとんど目立たないのです。しかし日本社会の現状、すなわち衣食住足りてなお心が満たされない状況では、そのイライラの矛(ほこ)先は、必ず自分よりもっと弱い存在に向けられてしまいます。

いじめにどう対応するか

教師も親も、体を張ってでも「孤立させない」という保証を被害者に与え続ける。

数年前に宗像市の某中学校で、いじめ被害者の父親が、加害者の少年2人をガムテープで縛り上げバリカンで刈りあげた事件がありました。この父親は傷害罪で逮捕されたのですが、この父親の行動は大変に勇気ある、親としての責任感にあふれたものであると私は思います。加害者の少年たちは、もしも被害者の少年が自殺でもしたら問われるべき、間接的な殺人罪を未然に防いでもらえたのですからその家族ともども感謝すべきでしょう。(お前やれるか?と言われたら、とても私はこの父親のような勇気はないと思うのですが。)

普通、被害者の子どもは泣き寝入りをするか、自殺をするか、どちらにしても人生を大きく狂わせられます。その親も同じです。泣き寝入りどころか、社会から逆に外されることもありうるのです。子どもがいじめの被害者として不登校になったことをきっかけに、それまで平和で何の問題もなかった普通の幸せな家庭が、いとも簡単にあっけなく崩壊してしまうことが少なくありません。
加害者側も、謝るか、開き直るか、知らぬふりをするか、態度はいろいろです。謝らなければ親も共犯者となります。しかし実際のところ、被害者が自殺でもしない限り、学校も教師も加害者の親も、普通は誰も何も責任をとりません。なんとなく誰も悪くないんだ、という議論になってしまうのです。
よその学校で起これば問題にすることでも、身内の場合には隠そうとします。

一方わが子がいじめの加害者側(たとえ首謀者ではなくても)であったことが判り、被害者の死に責任を感じて自殺した保護者の例もありました。現在の社会環境では、どの子もいじめの加害者になりうるし、われわれ親は自分の子どもがいじめの加害者になっていることが判明した時の対応も考えておくべきなのです。

教師は、もしも自分のクラスの子どもが突然に欠席をくり返すようになったら、クラスの中で何か異変が進行しつつある、と考えるべきです。精神科的疾患など、その子ども自体の異常のこともありえますが、しかしその子どもがいじめの被害者である可能性を十分に認識しておくべきです。理由のはっきりしない長期欠席ほど、クラスにいじめが存在することを示すサインはないからです。

まず加害者にアプローチするのではなく、被害者を精神的に孤立させないように、話しをしてくれる環境を用意してやる必要があります。電話によるいじめ相談や、児童相談所、教育委員会、精神科の児童精神科外来、小児科のカウンセリング外来など、いくつかの連絡網を利用します。 何だか暗くなってきたので、前号から続けてきた長い議論もひとまず終了とします。続きは、いつかひま~な時に(実際には暇がないのですが)してみたいと思います。

お知らせ

12月11日より、毎週木曜日午後の診療を福岡大学病院小児科の喜多山先生に担当していただくことになりました。受付時間は通常と同じく午後2:00~5:30です。喜多山先生は小児の内分泌学(低身長など)がご専門ですが救命救急センターでの勤務経験があり私よりも救急医療に精しい小児科医です。しかし救急のイメージと異なり、ゆっくりおっとりと話され不思議な雰囲気があります。是非一度木曜午後の外来を受診され違いのわかる感じを体験して下さい。

編集後記

8月と11月にクリニック職員2名に元気な赤ちゃんが誕生しました。どちらも男児で健康優良児でした。 収穫の多い一年であったことを喜びます。さて、ふくろう通信も満一歳を迎えました。ご愛読に感謝申し上げます。

この通信を始めたきっかけですが、診察の時に私が最も知りたい情報として、 『くう・ねる・遊ぶ』はどうか、ということを毎回必ず尋ねます。 それが状態を手短に把握し、処置内容を決定するために最も重要な情報だからです。 熱が39.5度か38.5度か、あるいは3回吐いたか6回吐いたか、それらはたいして重要な違いではありません。 それよりも、『昨夜から嘔吐と発熱で、あまり眠れなかったし、朝食ももどして少し元気がありません。 でもおもちゃには手がでます。まだ下痢はありません。』だけでよいのです。 年長の子どもさんでは、もっと情報量が増えるでしょう。

要領の良い問診と診察は待ち時間を短縮させるためにどうしても必要です。 病気に対して、患者さんと医療者側とが共有するべき言葉として、 どのようなものが最も有益であるかを、子どもさんの病気を奇貨として(転んでもタダでは起きない根性で)会得していただきたいと念じて診療の合間にこの通信を書いています。 明ける1998年が幸せの多い年であることを祈念しております。 (文責 一木貞徳)

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