日本の気象でもっともいやな梅雨に入ってしまいました。心までうっとおしくなってしまいます。わたしなりの上手な梅雨の過ごし方ですが、砂漠に住んでいると想像するのです。年間降雨量が数ミリから数十ミリというような乾燥地域では、わずかな雨でも心から嬉しくなります。今日は十年分降った。明日の予報では百年分降るそうだ、何て運がいいんだ。そう考えましょう。母さんも蛇の目(へびの目ではなくてジャノメ傘のこと)でお迎えに来ますよ、きっと。雨あめ降れふれ母さんがー…けっこう梅雨も楽しめるんですよね。
こどもの病気の診かたと看かた(35)未成年者の犯罪について
近頃は凶悪な少年犯罪がしばしば起り、どれもこれも犯罪の歴史を塗り替えるようなものばかりですから、世の中の親という親は皆不安でたまらないようです。
◇ うちの子ときたら、この頃まともに眼も合わせないし、食事の時だってほとんど喋らないのに、友人とはいつもケータイで喋くってるし、何を考えているのか分からないし、昔はあんなにかわいかったのに、いったい何で?…
◇ いつかはうちの子もあんな凶悪な事件を起すかも。そしたら自分たちは加害者 を育てた親として〝世間〟様に一生お詫びをし続けるわけ?
わたしも3人のこどもの親として不安がないわけではありませんが、よく考えてみましょう。中学生ともなれば、たいていのこどもは自分だけの世界を持っていて、たとえ親でも覗いて欲しくないはずです。親だからこそ隠したいことも多い。
いつもケータイで話せる友人がいるのは素晴らしいこと。 食事が済んだらさっさと自分の部屋に引き揚げたくなるのも当たり前。 それは思春期頃のこどもにとっては健全な感情です。親だって1人になりたい。
少年犯罪が起きるたびに、いろんな人がいろんな意見を言うわけですが、建築関係の方の意見も面白い。「そもそもこどもに個室を与えるのが悪い。どうしても個室が要るというのならば、必ずリビングを通ってからでないと行けないように配置すべきだ」 と。それなら個室がないほうが立派な人に育つのでしょうか?
わたしは決してそうは思いません。1人きりになりたいという欲求は自然なもの。1人だけの時間が保証されて初めて他者と関わりたいという欲求が生じるのです。いつも家族が団子状でいられるのは、こどもが幼い間だけ。
中学・高校になってもプライバシーの保てない空間に生活していたら、逆に世代間境界のあいまいな、友達のような親子関係になってしまいます。 兄弟姉妹同士でも距離感が必要なのに、それが育ちません。自分は自分、他人は他人という、親子といえども変えようのない、この距離感が刷り込まれて成長しないと、親離れも子離れもできなくなってしまいます。
さて、わが国には700万人もの中学生・高校生がいます。その中で、新聞を賑わせる凶悪犯罪は年間数十件です。それなのに、刑法の罰則年齢をどんどん引き下げようとしています。こどもたちのほとんどはまともなのに、です。
いっぽう大人の犯罪はそれとは質もレベルも違います。 たとえ直接に生命財産を奪う凶悪犯罪でなくても、役人も銀行も大企業も警察もすべてトップがデタラメをしています。下の者はやる気をなくす。誰が見てもおかしいルール違反が、この国では、職務の一環として公然と行われているのです。
そのことがどれほど、こどもたちの心に悪い影響を与えていることでしょうか? こどもたちが、他者の生命財産を尊重し、自然の環境を大切にし、からだと心にハンディのある弱者に手を差し伸べることができるように、健全に成長するには、どうすれば良いのか?どのような社会システム、教育システムが必要なのか?
わたしの考えでは、その回答は一つしかありません。 われわれ大人が「良いモデルをこどもたちに見せる」ことです。
少年法を厳しくし、倫理教育の強化を言う前に、指導的立場にある当の本人たちがウソを言わず、間違ったことをしたらきちんと謝る姿勢を示すことです。 汚職と職務違反に明け暮れる官僚上層部や確信犯的失言をくり返す政治家は、言い訳をせず、謝罪してきっぱりと辞職するべきでしょう。それがこどもたちへの良いモデル、良いメッセージとなり、日本の将来を良くするのです。
国旗や国歌はこどもたちの倫理観や正義感の育成とは何の関係もないと思います。 でたらめがまかり通る大人社会が押し付けるから、こどもたちは反発するのです。
ルールを守る大人たち、という良いモデルを見て成長することができれば、強制しなくても、自ずと国旗や国歌に畏敬の念を抱くような立派な日本人、国際人になれるはずです。「子は親の背を見て育つ」といわれます。 わたしたち大人は、こどもたちに良いモデルを見せているのでしょうか?