夏が終わり秋雨前線の季節となりました。
朝晩の冷え込みがきびしいと、体重あたりの表面積が大人よりも広いこどもさんでは、眠っている間に体表温度が下がりすぎることがあります。とくに脳の見張りがしっかりしていない5~6歳以下のこどもさんに多いのですが、朝起きたときから、顔色がさえず、ぐにゃっとしていて、乗り物酔いのように見えます。吐き気や食欲低下が見られたり、微熱がでることもあります。午後になって体温が上昇してくるとむしろ元気になります。検査しても、何も異常が見つからない場合もあります。からだが未完成のこどもは、少し冷えただけでも体調がおかしくなって、いろいろ不思議な症状を起こしやすいのです。
こどもの病気の診かたと看かた(38)季節の移り変わりとこどもの成長
私がこどもの頃、夏休みは母の実家に2週間くらい遊びに行っておりました。向こうに着くと、祖父や祖母や隣近所のジイチャン・バアチャン・オジサン・オバサンまでが、会ったとたんに、「大きゅうなったもんじゃね。そらまあよう来たのう」と言いつつ、私の頭をグリグリと撫で回したものです。年に一度か二度しか会わないと、前回との落差が実感されるのでしょう。 毎日顔をつき合わしている親には、こどもの成長はかえって見えにくいものです。
ところで、日本人は生活の中のいろいろな音に敏感な民族です。とくにセミなどの虫の鳴き声、鳥のさえずり、田舎の夜を騒がしくする蛙の鳴き声などをただの雑音ではなく、意味のある背景音楽ととらえる天性の音感を持っていることが指摘されています。
閑けさや岩にしみいる蝉のこゑ(松尾芭蕉)
死に近き母に添い寝のしんしんと遠田の蛙(かわず)天にきこゆる(斎藤茂吉)
これら生活の中の音は、また季節を表す音でもあります。夕食が終わって、どの家庭にも灯りのともる頃、ご近所を散歩してみましょう。草むらからは、やかましいくらい、いろいろな虫の鳴き声が聞こえてきます。一歩踏み込めば、まるで虫のオーケストラに取り囲まれたよう。 指揮者のいない楽団の練習風景のようです。
夏の虫は、セミも蝶も、高く舞う虫が多いのですが、秋の虫はどこで鳴いているのか、探してもなかなか見つかりません。しかし、緑の少なくなった日本の街の片隅で、車の排気ガスにさらされた道端の草むらで、この季節、止むことなく小さな命の合唱を聞くことができます。
虫にしてみれば、ただ彼らの生を営んでいるだけで、私たちに季節の音楽を届けているなどという発想はないのでしょう。ところが私たちは、古代からの悠久の時を感じてしまうのです。自然を加工・破壊せず、自然とともにわれわれ自身の生活を営むのが、古来日本人の生活様式であったのだと思わずにはいられません。
音だけではありません。季節の色彩も私たちの生活にはしっかりと染み込んでいます。椿、梅、桜、すみれ、菖蒲、さつき、紫陽花、あぶら菜、向日葵(ひまわり)、秋桜、菊、その他、れんげ草や月見草、かすみ草などの雑草…。木の実も魚介類もすべて色彩をめでて接します。
そして季節ごとのこどもを中心とした行事。中部より東日本では、正月行事として、少年たちが寝食を共にしてこもる仮小屋の風習があります(正月小屋)。桃の節句、端午の節句、七夕、陰暦9月9日の重陽の節句(菊の節句)、七五三、と続きます。こどもたちは、このような季節ごとの行事を通して、家庭の枠を超えて、地域の共同体へと少しずつ参加させられていきます。
他にも、盆踊りや各地域ごとに習俗・行事があり、それらは、いちように色彩あざやかに染められています。ハレの日の行事を通して、共同体的心性が個人の心に刷り込まれていきます。 ハレの日の色彩が豊かであるほど、忌みの日におけるモノクロームが強調されます。
これらは、個人がその家族を超えて、共同体の一員として成長していくために欠かせないものです。一定の年齢に達した少年少女には、行事の中で特別な役割が与えられ、それを成し遂げる体験を通して、地域共同体から認知される、すなわち大人社会への参加を認められるのです。
しかし、高度成長期を通過した日本では、このような地域ごとの習わしが急速にすたれてしまいました。しばしのうたげの後にやがてバブルがはじけて、今日のような長期構造不況がくることが、もしもあらかじめ分かっていたなら、きっと日本はもっとゆっくりした、堅実な経済成長の道を選択してきただろうと思います。
自然破壊に直結する開発のスピードを落とし、日本古来の村落共同体を残し、高齢者や弱者に、施設の中でなく、自然の中で共存できる社会システムの構築を目指したにちがいありません。
振り返ってみれば、高度経済成長で手にしたもののほとんどを失ったばかりか、残されたものといえば、荒れた国土と、近所付き合いどころか、家族内の付き合いさえ満足にできない多くの人々だとしたら、戦後の日本が歩んできた道とはいったい何だったのでしょうか。
こどもがまっすぐに育ちにくく、凶悪な少年犯罪が増えつつある日本社会とは、一方で戦後の復興を支えてきた高齢者が施設に収容され、季節の色彩、音、香りから切り離されていく社会でもあります。こどもが情感ゆたかに育つ環境とは、決して経済的にゆたかな社会を意味するのではありません。豊かな自然と、お金では手にいれることのできないものの価値を、人々が共通に認め合っている社会、それこそが子育てに望ましい環境なのではないでしょうか。
心の問題がクローズアップされてくるにつれ、心理学やカウンセリングへの関心も急速に高まっています。高校生を対象にした調査でも、将来の職業として心理関係を希望する生徒が一番多いという結果が報道されています。しかし、いくら心理学や精神医学を勉強しても、現在わが国で問題になっている「引きこもり」や「不登校」を完全に理解することはできないでしょう。
これら多くのケースが、家庭の育て方が悪かったとか、親自体が不幸な幼児期を過ごしたとか、学校の先生が悪かったとか、とにかく家庭内問題か学校内問題として議論される傾向にありますが、それは一面的であると私は信じています。こどもの心の問題や、高齢者の問題を理解し、対応していくには、心理学よりも生理学や民俗学などを勉強した方が適切かも知れません。
わたしたちの祖先は、日本列島という土地で、どのような音感・嗅覚・視覚・触覚をもって、自然と交感してきたのか、そこまでさかのぼって考えなければ理解できないことでしょう。人が共同体の一員として成長していく過程には、音色、色彩、香りなどの要素が大切なのです。