ふくろうブログ

2001.02.01 ふくろう通信

一木こどもクリニック便り 西暦2001年2月(通算50号)

暖冬のおかげなのか、インフルエンザらしき患者さんはほとんどいませんが、嘔吐下痢症、水痘、はしか(麻疹)、溶連菌感染症などが、不在を穴埋めするように増えています。まもなく春一番が吹き荒れると、スギ花粉の散布がいっせいに始まります。そのスギ花粉、今年は近年になく大豊作とか。昨秋から台風の直撃がなく、丸々とふくらんだスギの雄花が両国の花火のように天高く花粉をふりまく様を想像すると…。受験生の皆さん、ハナが通ると入試も通りますよ。予防しましょう。

こどもの病気の診かたと看かた(45)医療におけるユニヴァーサル・デザイン(2)

医療事故が後を絶ちません。連日のようにマスメディアに報道されます。さいきんの報道では、人と人の間、つまりスタッフ間の引継ぎミス、申し送り時の確認ミスによる事故が多くなっています。

医療過誤が発生した時の対応や、ふだん患者さんの訴えに真剣に耳を傾けない医師への不信の結果、医療全体への不信の声が大きくなっています。体調が悪いときに、どうやって身を守れば良いのか分らない、どの医療機関であれば安心して任せられるのか、人々のそういう思いは切実です。

医療事故をできるだけ少なくするために、また医療への不信をできるだけ減らすことができるように、私がもっとも必要だと考えていることを今月は述べてみます。 

それは、患者さん(サービス利用者)と医療職員(サービス提供者)とが、互いに分かり合える言葉を共有することがもっとも重要である、ということです。 医療スタッフは、専門用語を使わず、素人の言葉で、つまり同じ土俵・基準で考えるわけです。

同じ土俵で使える「共通言語」として、「食う・ねる・遊ぶ」という言葉ほど普遍的(ユニヴァーサル)なものはありません。健康の度合いと病気の程度を判断するためには最適の言葉だろうと思います。  
この言葉の由来などについては、通信の1997.2月号を参照してください。

「食う」というのは、食べて、飲んで、出して、成長する(こども)、現状を維持する(成人)ことです。こどもは縦も横も大きくなるのがアタリ前ですが、成人では縦の成長は止まっていますから、横に大きくなりだしたら肥満、横に小さくなりだしたらヤセで、どちらも異常です。

「ねる」というのは、すやすや眠る、安眠することで、こどもでは順調な成長・発達の必要条件です。

「遊ぶ」には、すべての人間精神と身体的活動が含まれ、勉強・スポーツ・仕事すべて「遊ぶ」です。  ごきげんが良い、好奇心が旺盛であるのは、精神がいきいきとしている証拠ですから、健康的ですね。

ある人が健康であるということは、その人の「食う・ねる・遊ぶ」がすべて〇〇〇ということです。

3つの要素のどれかが〇でないということは、その人がどこか不健康であるということです。どれも×××の人は、身体の病気であれば生命に危険のある重症か重体、精神の病気であれば重いうつ状態、あるいは精神機能が著しく低い水準にあることなどを示します。 この「共通言語」は、赤ちゃんから寝たきりのお年寄りまで、すべての年齢の人に、人間だけでなく、生命ある存在すべてに、あらゆる時代の生命全般に通用する公理(説明不用の定理)です。 アウストラロピテクス、北京原人、ネアンデルタール人、金さん銀さん鈴さん、とにかく例外なし。

猿人や原人は現代人と違うんじゃないの、と思う人がいるかも知れませんが、同じなのです。白亜紀の地上をカッポしていた恐竜や氷河期のマンモスも、「食って、ねて、遊んで」いたはず。 何週間も絶食で吼えまくるティラノザウルスや、一睡もしないマンモス君を想像できますか?

いつも「ニーハオ」「チャーオ」と笑顔の〇〇原人さん。今日は狩にでかけず、朝から食事せずゴロゴロしています。それはからだか心か、どこかの異常ですね。顔がゆがんでいたら急性虫垂炎や膀胱結石かも知れないし、話もせずに1日中ふさぎこんでいたら、原始村社会のイジメかも…。 「食う・ねる・遊ぶ」がどれも×印になれば、ネアンデルタール人だって悩んでたろうと想像します。

もちろん日本だけでなく、世界中どこの国の人々にも通用します。100年後でも100万年後でも通用するはず。だれもが「食って・ねて・遊ぶ」日々を過ごしています。食べ物が眼の前にあるのに食べられない人、睡眠時間があるのに眠れない人、体力・知力があり、職場もあるのに仕事できない人、仲間とうまくコミュニケーションがとれない人、それらの人はどこかに問題を抱えているはずです。

「食う・ねる・遊ぶ」は、日常普通の言葉だからこそ、時空を超えて普遍的な言葉となりえるのです。医療スタッフは、この日常の「共通言語」で、患者さんと診療上の会話をしなければなりません。 医療のユニヴァーサル・デザインにおいては、医師と患者さんの「共通言語」の確立が欠かせません。

「食う・ねる・遊ぶ」というだれにでもわかることが病気と健康を理解するために、もっとも大切な要素であるということは、しかし困ったことに、義務教育の中ではきちんと教えられていません。

自分の身を守るために必要なことは、「急いで受診すべきか、ゆっくりでよいのか、それとも当面は受診しなくてよいのか」の判断で、その基準は、急性疾患であれば「食う・ねる・遊ぶ」へのダメージの程度を評価するのが一番信頼できます。もちろんプロであるためには、この原則の例外を理解し、多くの例外的症例を経験しておくことが非常に大切ですが。

例外とは、首のすわっていない赤ちゃん、寝たきりの高齢者(首がグラグラ)、基礎疾患のある人、重度身障者…など免疫の弱いケース。目、耳、ハナ、性器など交換できない部分の症状。そういうケースではみかけ上の「食う・ねる・遊ぶ」で判断せずに、一段用心深く対応すべきということです。

例えば、高齢者の場合には、はじめは普通のかぜでも肺炎を合併しやすいこと、高齢者肺炎では、発熱が目立たず食欲だけが低下したり、反応が鈍くなります。首がすわる前の赤ちゃんが発熱したら、約20%は敗血症や無菌性髄膜炎ですから、「かぜでしょうね」などと簡単には言えません。

×××の人に検査もせず、処方箋だけで帰宅させる医師はいないでしょうし、○○○の人に多くの検査を実施するのも考え物です。点滴しておきましょう、といえば、大抵は××△程度に悪い人であって、その判断自体は家族にも分かるはずです。医師が頭で考えていることが、患者さんにも見えていないといけない、そうすれば医療過誤はかなり減らせる。自分の反省に立ってそう信じます。

医療のユニヴァーサル・デザインには、サービス提供側と利用側が共有できる基準作りが必須です。

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