体の発育、すなわち体格が大きくなっていくことを、成長といいます。 また運動や感覚、思考、言語などの機能的な発育を発達とよんでいます。 成長や発達はどのような動物にもみられる現象ですが、人間の場合には、社会的存在になっていく、ということが忘れてはならない特徴のひとつです。
生まれたときには動物としてのヒトに過ぎない存在が、成長・発達とともに、社会的存在としての人間になっていく、つまりヒトとヒトの間の存在になっていくのです。
もしも、ヒトとヒトの間の存在、すなわち社会的存在になることに失敗すれば、それはすなわち非社会的存在か、あるいは反社会的存在になりかねません。 体格は大人になっても、いつまでも子どものような幼稚な人格や、何を考えているのかつかみどころのない、マシュマロのようなふわふわした人格ができてしまいます。
ガンや糖尿病などは、他人がいなくても発病してくる病気です。対人関係の病気ではありません。しかし、心身症、ノイローゼ、不登校、出社拒否、帰宅拒否、いじめ、虐待、家庭内暴力、その他、今日問題となっている非社会的、反社会的現象は、いずれも他者との関わりの中で生じてくる異常、すなわち対人関係の病理なのです。
一度きりしかない人生を、できることならば対人関係のゴタゴタで悩まされることなく、快適に過ごしたいものです。しかし離れ小島でロビンソンクルーソーのような一生を送るのでもない限り、他者と関わりのない生活は現実には不可能です。
しかもつきあう範囲が広くなればなるほど、誰でもいつかは、このような対人関係の病理に巻き込まれることになるでしょう。問題は、そういう状況に立たされたときに、いかに円滑に処理できるか、どうすれば最小限の心的外傷で切り抜けられるのか、何かコツがあるならば、成人になるまでに学習できないものか、ということでしょう。
さて、車の操作でもっとも大切なことは、事故を起こさない運転ですが、そのために最小限必要なことは、適切な車間距離を維持することです。
人間(=社会的存在)として大切なことも、適切な人間(じんかん)距離のとりかた、つまり対人関係での上手な間(ま)の取りかたを学ぶことである、といえましょう。
乳児期には、乳飲み子は母親と完全に一体なのですが、やがてハイハイ、つかまり立ち、伝い歩き、独り歩きができるようになるにつれて、母親との間に一定の距離が自然と生じてきます。一分のすき間もない状態から、ほどよいすき間のとれる状態へ、それが、こどもが育ち、親離れが完成し、社会へ船出していく、という意味です。
まず家庭、つぎに地域社会(幼稚園、義務教育)の中で、こどもは、親、兄弟姉妹、親戚、友達、無数の他人、というように、徐々に拡大する対人関係と絡み合いながら、ちょうど良いじんかん距離のとりかたを習得していくことになるでしょう。
しかし、今日の日本では、旧くからの村落共同体が崩壊し、あいついで開発されるニュータウンにとって替られ、核家族と化した親子世帯だけの、小さな集合となっています。お年寄りは各種のホームに収容され、学校や学習塾での過密なスケジュールにしばられたこどもたちは、路上で日暮れまで遊ぶことさえまれになりました。
本来、幼稚園から思春期前までのこどもたちは、昨日はA君・B君と、今日はC君・D君と、というように、取り替え引き替え、毎日のように群れ集う相手を変えます。この傾向に男女差は見られず、人生に一度きり、思いきり悪さのできる時期です。
このように同性同士の、かつ異なる年齢のこどもたちが、前思春期頃までの数年間に、集団で遊びまわる時期を、発達心理学ではギャングエイジとよびますが、この時代は、じんかん距離のとりかたを習得するには絶好の、乱取り稽古の道場であるといえます。 義務教育を卒業してからでは、このようなトレーニングはすでに遅いのですが、恐ろしいことに、その必須の体験が現代のこどもたちからは失われつつあるのです。
一方で、大家族の崩壊は、お年寄りの知恵を若夫婦の子育てに生かすチャンスを奪ってしまう結果になりました。それだけではありません。おじいちゃんやおばあちゃんの知恵袋も、昔にくらべるとずいぶん小さいものになってしまいました。
予防接種のおかげで、嫁いで行った娘はハシカにかからないまま成人に。だからおばあちゃんも他人どころか娘のハシカも見たことがない。それで娘のこどもが発熱した、ブツブツがでた、と聞くと、すぐにハシカではないかと大騒ぎ。よくある話です。
共稼ぎ夫婦の大事な一人っ子を昼間預かっている老夫婦は、いつも重責を負わされた心境でビクビクしています。夕方になって、若夫婦から苦情を言われるのがつらくて、ささいなことでも受診をするクセがつきます。知恵袋は空袋になってしまったのです。 このように現在の日本では、そして先進工業国の多くでも、古老の知恵が生かされず、あるいは新しい生活形態に適合しなくなり、一方で、こどもたちは、十分な対人関係のトレーニングを体験しないまま社会人となっていかざるを得ません。社会的存在として必要な、上手なじんかん距離のとりかたができない社会人が増えつつあるのです。
対人関係のトレーニングが不十分であれば、現実の社会生活の中で、人は思いもよらずに他者を傷つけ、あるいはささいなことで傷つけられ、いつまでも心の傷をひきずって、癒されないまま、いよいよ他者とのふれあいを拒むようになっていきます。
また最近の調査では、初めてわが子をもうけたお母さん方の60%が、それまで一度も子守りの経験がない、ということが明らかになっています。夫の協力が得られないことよりも、乳幼児に触れたこともないままに成長することが、育児不安の大きな要因と考えられるのですが、母親自身が一人っ子であった場合や、末っ子として成長した場合にその傾向が強いようです。実際に母親になる前に、弟妹の子守りをする経験は、進行する少子化傾向とともに、これからますます減少していくことでしょう。
大家族で生活し、こどもたちに心のゆとりを保証し、誘拐などの危険のない遊び場を確保する、こどもが成長する過程で、できるだけ多くの他者、老人やこどもに触れあえるようにする。国家によるそういう政策が実現することが理想でしょう。それが実現すれば、増加しつつある対人関係の病理の多くは減少に向かうはずです。
しかし社会の構造を根本的に変えることは、もはやできそうにもありません。 そうであるならば、私たちのおかれた状況の中で、どのような対応がもっとも現実的で、事態を変えることが可能であるのか、そのことを検討しなければなりません。
私は、以下の2点の理解が、親として、最小限必要であろうと考えています。
① 育児における母親と父親の適切な役割を知る。
② こどもから大人への発達過程を理解する。とくにからだと心の発達の関連について。
私は大学病院勤務の時期を含め、過去十年の間に、十数回の講演会を引き受け、育児の問題、こどもの心の問題などについて、自分の考えかたを一般の方々に伝えるように努めてきました。また日常診療のあい間にも、お母さん方にワンポイントアドバイスを心がけてきました。これから数回にわたり、それらのエッセンスを述べてみます。
こどもの発達における母性と父性の役割
赤ちゃんは、まず母親との距離をとる能力を学習します。この過程で大切なのは母親の母性です。じっと目をみて(アイ・コンタクト)、いつも笑顔で、おだやかな声で語りかける、やさしくふれる(スキンシップ)、赤ちゃんの声に応える、それら一連の動作が欠かせません。このような働きかけを、母親がたえずくり返すことによって、赤ちゃんの原始記憶には、良い母性イメージ(受容し、与える)が刷り込まれます。
母親がいつもそばにいる、ということが確信できる時、その赤ちゃんは発達につれて、母親から離れようとします。キタキツネの仔別れのように強制しなくても、こどもの方から自然と距離がとれるようになるのです。しかし、母親がいつ不在になるかわからない不安定な状況や、いても笑顔を与えてくれない状況のくり返しでは、赤ちゃんは母親から離れようとはしません。周囲への探索行動は制限されたものとなります。
やがて赤ちゃんの視界には、父親や兄弟姉妹などの、家族の姿が写るようになります。ところが、家族の中で父親の果たす役目は、母親のそれとは本質的に異なっています。
父親は、受容し、与える存在ではなく、こどもから母親を切り離し、奪う存在なのです。母親とこどものしがみつきを切断し、何が待っているかわからない家庭の外へ連れ出す存在であることが、父性にとっての必要条件なのです。
こどもにとって、母親は糊であり、父親はハサミであるともいえるでしょう。
こどもが幼児期にさしかかる頃から姿を現し始める父親のハサミは、逆説的に聞こえるかも知れませんが、乳児期に十分に安心できる母子関係を経てきたこどもにとっては、むしろ歓迎できる方向で作用します。今や自由に動き回れるようになったこどもにとって、家庭の外には、興味をひくこと、遊びの本能をくすぐる面白い誘惑が限りなくあり、それらに導いてくれるのが、父親だからなのです。
家には母親が待っている、帰るべき港がある、という絶対の安心感の上で、こどもは喜んで外の世界を覗きに出かける(=探索行動)ことが可能です。
家庭から一歩を踏み出すときに、父親の役目(父性)はこのようにきわめて重要です。
父親の負うべきもう一つの大切な役割は、限界状況の設定です。
ここまではしてもよい、これはしてはならない、そういうケジメを、身体的な危険状態の認識から、社会規範(ルール)、人間としての倫理にいたるまで、きっちりとこどもに刷り込むこと。こどもにとっては、うるさい親父とうつるかも知れませんが、成人したときにこどもから感謝されるのは、それらを実体験で教えてくれた父親なのです。こどもにとってそれがのぞましい良い父性イメージなのです。(次号に続く)