4月末から父が肺炎・脱水で危篤となり、市内の病院に入院し、とちゅうで福岡市の病院に転院する騒ぎとなりました。
満82歳の本人をはじめ、まわりがみな高齢者のため、また医療関係者として、どうしても介護には中心的に関わらざるを得ないのですが、そろそろ全身に故障の出始めた中年の身としては、診療終了後に福岡へ往復するだけで消耗してしまい、睡眠や食事もすっかり狂いました。
しかし、1週間ほとんど意識のなかった父が奇跡的に回復してくれたことで、疲れも消えたように感じます。
さて、患者サイドから医療を眺めてみると、いろいろなことが見えてきます。 入院患者の介護にあたる家族にとっては、職員であれ、他の誰であれ、他人が立てるドアの開閉の音、大きな話し声、ドタバタと走り回る音…、要するに「音」が疲れの一因となります。
しかしこれらの「音」は、寝たきり状態で、ゆっくりと回復しつつある患者さんにとっては、ボケ防止の妙薬にもなるのです。ときどき遠くから聞こえる咳ばらい以外には、ほとんど物音さえしない、森閑とした昔の結核療養所みたいな施設であれば、おそらくかなりの患者さんが痴呆化してしまうことでしょう。
絶えずいろいろな「音」が寝たきり患者さんの耳に届くことによって、脳は活性化され、血圧や呼吸や循環、ホルモンの分泌などが変化を受けるからです。
また、点滴スタンドや尿道カテーテルの入ったままのからだで、歩行訓練をしている患者さんにとっては、階段の昇降は、きわめて危険性の高い動作になります。もしもこのような患者さんが階段を降りてくる現場に居合わせたら、その人が無事に廊下に降りてくるまで、下で待つのが礼儀です。もちろん転倒した場合にはすぐに駆け上がる態勢で見守るのです。
あるいは自分の一歩前を、そのような患者さんが階段を上ろうとしているのを見たら、追い抜くのではなく、後ろからついていくべきでしょう。もしも滑ったりしたら、いつでも支えられるように。
高齢者や何らかのハンディキャップのある人、病人にとっては、近頃、新聞や雑誌の広告で見かけるバリアフリーの住宅(動線上に段差のない建築)は本当にありがたいものだと思います。
しかしもっとも大きな障害は、行き交うひとびとの心の中に存在する、目には視(み)えないバリアー(障壁)なのです。
日本に比べて医療福祉政策が格段に進歩している北欧社会では、一時的な弱者 (妊婦さんや幼児を抱えた母親、病人)と、永続的な弱者(高齢者、ハンディキャップのある人など)を問わず、すべての弱者を社会の成員みなで支えていく、という姿勢がはっきり見られます。
その福祉政策に必要な財源ほとんどを間接税でまかなうため、国民生活に直結する消費税率が25%に達する国もあります。
まもなく21世紀。日本はどのような高齢者医療、福祉を考えるのか。財源はどこからもってくるのが公平なのか。私たち一人一人が真剣に考えることが大切です。