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医療におけるユニバーサルデザイン

さいきん、建築学の分野で、これまでのバリアフリーという言葉を拡張して、ユニヴァーサル・デザイン(普遍的意匠)という言葉が使用されるようになっているそうです。赤ちゃんからお年寄りまで、男性でも女性でも、右利きでも左利きでも、視力、聴力、四肢歩行の機能の差にも、知的障害の有無にもかかわりなく、だれでもが不自由なく利用可能な、住宅や公共施設が実現可能だと想定して、そういう意匠をユニヴァーサル・デザインと表現しているのでしょう。

医療活動におけるユニヴァーサル・デザインがあるとすれば、それはどういうものでしょうか?

<細分化、分業化された医学、部品と化した人体、全人的対応を願う患者>

今日、医学は多くの分野に細分化され、臓器移植や生殖医療のように、急速に実用化されつつある新しい分野も増えています。医学が進歩するほど、ますますこの傾向は強くなっていくでしょう。

しかし、医学が進歩し、限りなく細分化されていったとしても、医療が対象としているのは、決して、こま切れにはできない一人の人間、精神と身体を完全には分離できない、人間という存在そのものであることを忘れるわけにはいきません。

医学を学ぶ過程では、生物としての人間を徹底的に分解して理解することが必要ですが、それを医療活動で実践する場合には、部品としての人間を見るのではなく、全人的な対応が欠かせません。医療者の資質としては、他者への共感能力、他人が困っていることに対する想像力が求められます。 頭が痛い、おなかが痛い、そういう悩みそのものに、徹底的に付き合うという姿勢が大切なのです。

「あなたの困っていることは何でしょうか?私は、あなたの困っている問題に徹底的に付き合っていきましょう。私で十分な対応ができないのであれば、適任と思われる人を探しましょう。」

そのような対応能力は、従来の医学教育の中でも、十分になされているわけではありません。私個人の日常診療を振りかえっても、患者さんの悩みに、常に正面から向き合ってきたとは言えません。一人数分間の診療時間では困難なこともありますが、それでも対応する努力は続けたいと思います。

話はかわりますが、西洋中世の時代、伝染病や食中毒はすべて、神による人間精神へのこらしめか、たたりか、そんなとらえ方でした。おなかが痛いのも、頭が痛いのも、おなかや頭のせいではなく、すべては人間の心の持ちようであり、ふだんの行い、信仰の深さによるものと信じられていました。 宗教の権威が絶対であった中世では、人間の精神と身体はまだ別のものではなかったのです。

<デカルト以来、人間の精神と身体は引き裂かれたまま>

そこに登場してきたのが、「われ思う、ゆえにわれ在り」として有名な16世紀フランスの哲学者デカルトです。デカルトは、「考える主体」である精神と、「考えられる対象」である物質的なものとを厳密に区分する二元論を確立し、身体は物質のほうに振り分けました。

宗教があつかうのは精神の領域であり、身体の仕組みやその病気の理解は、物質的なものの変化として、科学者の対象となりました。人間の身体を含む自然科学の領域に、聖職者は関与しないように祭り上げられたのでした。聖職者は、学問の中の学問である神学の研究に打ちこむべきであり、神学のしもべに過ぎない科学などに関わるべきではない、として科学への介入を拒んだのです。

キリスト教会の支配を離れた自然科学は、水を得た魚のように急速に進歩をとげます。デカルトから400年以上を経た今日まで、近代西洋医学が世界に与えた恩恵は計り知れないでしょう。そして、 行きつくところが臓器移植であり、そこでは人間の身体そのものは、機械の部品と何らかわりなく交換可能なものと見なされます。生殖医療も、倫理的、宗教的な思考を超えて展開しつつあります。 必然的にそこから生じたものは、引き裂かれた精神と身体の絶えざるたたかいに他なりません。

今日、成人とこどもとを問わず、心身症や神経症をはじめとする、さまざまな心の問題が増加しているという事実は、私たちの社会がいかに不安やストレスに満ちたものとなっているか、そのことを明らかに示していると考えてもよいでしょう。つまり、デカルト以来、引き裂かれた精神と身体の問題を、私たちは、まだ統合できないままに生きているということの証なのです。

心が不安定になれば、からだの症状がでてきます。食べられない、眠れない、おなかが痛い、頭が痛い…。逆に、身体的な病気であっても、そのほとんどが心理的、精神的な動揺を伴います。ガンと宣告されれば、その日から食べられない、眠れない状態となります。仕事にも差し支えます。病気そのものでやられる前に、心理的にダウンします。人間とはそれほど心身一如の存在なのです。

<病気になって悩む人間に差し伸べられるべき、全人格的医療>

21世紀の医療は、引き裂かれた人間の精神と身体をふたたび統合することをねがって、患者さんを全人格的に診ようとする方向を目指さざるを得ないでしょう。医療におけるユニヴァーサル・デザインというものがあるとしたら、すでに言い古された言葉ではありますが、「医療者は個々の病気を診るのではなく病人を診なければならない」という医療の原点にほかなりません。もともと心の医療とか身体の医療とかの区別はなく、あるのはただ一つ。病気を得て悩む人間と、その悩みに専門家としてどのような援助を提供できるのか、同じように悩み続ける医療者の存在だけなのです。

これからも、私は、病気になって悩むこどもたちと、そのご家族の悩みに、ずっと付き合っていきたいと考えます。心の悩みで朝になると腹痛を訴えるこども、はなの調子が悪くて、成績の上がらないこども、風に当ると頭が痛いというこども、眠れないこども、友達とうまく喋れないこども…。

そのこどもたちの小さな、しかしたくさんの悩みに、徹底的に付き合っていきたいと思います。21世紀の日本を支えるのは、そのような心に限りない悩みを抱えているこどもたちなのです。私たちはだれでも、好むと好まざるとにかかわらず、やがて彼らに支えられる側、世話を受ける側に回るのですから。そういう基本的姿勢で、新しい時代の小児医療を展開したいと希望しています。

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